ゆうメンタルクリニック秘密コラム 「五感の質屋」
ゆうメンタルクリニック秘密コラム 「五感の質屋」
視覚。
聴覚。
触覚。
嗅覚。
味覚。
あなたがこの感覚のうち、どれかを失わなければならないとするなら、
どれを選びますか?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆ 五感の質屋
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「娘さんの命は、永くないでしょう」。
その言葉が、心に突き刺さった。
私には、一人娘がいる。
名前は、慶子。今年で10才になる。
妻をある病気で亡くしてから、私一人で育ててきた。
その娘が、突然にお腹をおさえて苦しみだした。
そのまま入院し、さまざまな検査が行われた。
その結果、伝えられた病名は、妻とまったく同じだった。
「ご存じ…だとは思いますが…」
医師は、妻の担当をしてくれた人物だ。
私にとって、二度目の告知だった。
「…この病気は非常に珍しい疾患です。発症から短期間で、全身の組織が慢性
的に壊死していきます」
言葉の一つ一つが、死刑宣告のように感じられる。
「…前にも申し上げました…わけですが…。現在、治療法は存在しません」
そう。そのセリフは、妻のときに、何度も聞いた。
まさか、娘も同じ病気にかかるとは。
しかし、あのころと事情はまったく変わらないのだろうか。
私は思わず聞いた。
「何とか…。何とか助けていただくことはできないでしょうか…?」
自分でも、それが無理だとは分かっていた。
すると医師は、こう話した。
「いえ、ただ…。以前より、この病気については研究が進んでいます。
そのため現代の医学では不可能でも、たとえば5年先…。もしくは10年先でし
たら、治療方法が見つかっているかもしれません」
その言葉が、どれだけ信じられるのか。
それでも、私には希望のように感じられた。
「む、娘は…。それまで大丈夫です…よね?」
医師の反応が待ち遠しい。
しかし医師は、こう言った。
「非常に申し上げにくいのですが…」
医師はためらいながら、言葉を続ける。
「あと一年は持たないでしょう」
その言葉が、私の心に突き刺さった。
◆
私は病院を出て、街の中を歩いた。
大事な人間を、2回も失わなければいけないのか。
どんな方法でもいい。
どんな手段でもいい。
娘の命を、何より助けたい。
自分の命を引き替えにしたって構わない。
しかしもちろん、そう思っても何の意味もないだろう。
そのとき。
私が、その店に出会ったのは、必然だったのかもしれない。
「五感の質屋」
看板には、間違いなくそう書いてあった。
◆
意味が分からない。
ただ、その看板には、不思議な迫力があった。
私は気がつくと、その戸に手を掛けていた。
「いらっしゃいませ」
中には、およそ質屋とは似つかわしくない女がいた。
黒いドレスを着用し、黒いヒールを履いた、黒髪の女だった。
年齢は20代だろうか。
年の割には、落ちついた立ち振る舞いをしていた。
「質入れをお望みでございますか?」
私はその言葉を聞くと、ハッと我に返った。
「い、いや………。すみません。間違えたようです」
すると、彼女はこう言った。
「あら? お金はご入り用ではありませんか?」
「い、いや、必要ないよ」
金なんて。
金なんてあったって、何の意味もない。
私がほしいのは…。
そんな言葉を、あわてて飲み込む。
私はすぐにそこから立ち去ろうとした。
その瞬間だった。
「じゃあ、お金ではなく、誰かの命なら?」
彼女は突然、そんな言葉を発した。
その言葉に、私の動きが止まる。
「…は? 今、何て?」
「お渡しするのが、誰かの寿命なら? と申しました」
「ど、どういうこと…?」
私は思わず唾を飲み込む。
すると彼女は口を開いた。
「ですからこちらは、お金のかわりに、寿命をお渡しできる質屋でございます」
突然のことに状況が理解できない。
到底、ありえる話とは思えない。
しかし、彼女の言葉には、なんとも言いようのない迫力があった。
私は少しだけ、話を続けてみることにした。
「誰かの、寿命を延ばす?」
「その通りです」
「そのための代償は? 私の命なのか?」
「いえ…。感覚です」
「感覚? 感覚って何だ?」
彼女は笑いながら、言葉を続ける。
「あなたは、私のことが見えますか?」
「………!? み、見えるよ……? まさか幽霊とかじゃないだろ…?」
「あなたは私の声が聞こえますか?」
「………き、聞こえなかったら、話してない…よね…?」
「あなたは…」
「?」
彼女はそう言いながら、私の頬をつねってきた。
「いだだだだだっ!」
「この痛みを感じますか?」
「なななな、何すんだ!? 感じるに決まってるだろ!?」
「では最後に、こちらをお食べください」
そして彼女は、小さなガムを取り出した。
「どうぞ?」
女の言葉には迫力がある。
私は、思わずそれを手に取った。
「お食べください?」
しかたなく、それを口に入れる。
「ん………」
「………」
「ん、んがががががっ!」
アンモニアとカブトムシが混ざったような味とニオイだった。
あわてて口からはき出す。
「なななな、何すんださっきから!」
すると彼女は、にこやかに口を開いた。
「このように人には、『五感』がございます。
目 … 視覚
耳 … 聴覚
肌 … 触覚
鼻 … 嗅覚
舌 … 味覚
の5つのことを言います。
すなわちあなたは、その5つとも、持っていらっしゃるわけです」
「………だ、だから何なんだよ!?」
「その『五感』を質入れするかわりに、あなたの望む方を、延命させていただ
くわけでございます」
「………!?」
言葉の意味が、よく飲み込めない。
「ご、五感を、し、質入れ!?」
「その通りです」
「………って、ナニか!? じゃあたとえば視覚を質に入れたら、目玉を取ら
れてしまうとか!?」
「そんなことはいたしません」
「じゃ、じゃあ…」
「ただ、あなたの感覚そのものの働きを奪うことになります」
「………」
「それが嗅覚なら、今後一生にわたって、ニオイを感じることはできません。
味覚ならば、味を感じることはできません。視覚や聴覚に触覚、すべて同様と
なります」
「………そ、そんなことが、可能に………」
「可能でございます。あなたから奪うのは、『意志』です。見たい、聞きたい、
味わいたい…。そんな意志を、いただくことになります。その結果、あなたは
その感覚を失ってしまうわけです」
「………」
にわかには信じがたい。
しかしその言葉の一つ一つには、何とも言えない真実味があった。
「…一つの感覚ごとに、命と引き替えにできる、と…?」
「はい。そのいただきました意志のエネルギーから、我々の取り分をいただき
まして、残りを望む方の寿命、5年分に当てさせていただきます」
「…た、たった5年!? 短くないか!?」
「長く感じるか短く感じるかは、人それぞれですが…」
「…となると、全部の感覚を質入れしたら、25年分、寿命を延ばせるわけか…」
すると女は、静かに首を振った。
「それはできません。と申しますか、オススメいたしません」
「え?」
「お客様は、ヘロンの実験をご存じですか?」
「ヘ、ヘロン?」
「心理学者ヘロンは、被験者の視覚をふさぎ、無意味な機械音だけが流れる部
屋に寝かせました。
また同時に、被験者の体に触覚をおさえるカバーをつけました。
すなわち、五感のほとんどを遮断した状態にしたのです」
「………そ、そうしたら………?」
「多くの被験者が、数時間で無意味なうめき声をあげるようになりました。同
時に、幻聴や幻覚が生じた人間もいたようです。
結果、最大でも『48時間以上もった』人間は『いませんでした』」
「………!!」
「全部の感覚を完全に失うことは、それだけ危険なのです。
私もそこまで危ない橋を渡りたくありませんので、質入れは最大でも4つの感
覚まで。すなわち延ばせるのは…」
「最長でも20年か…」
「その通りです」
「………」
ここで、私は聞いてみたいことがあった。
「ちなみに、6つめの感覚は、質入れできるのか?」
「6つめ、というと…?」
「第六感とか」
すると、彼女は答えた。
「10円でございます」
なぜ、突然に円換算。
さらになぜ、そんなに安いのか。
「5感に比べたら、クズでございます」
そんなにも。
「さて、どうされますか?」
彼女はあらためて聞く。
私は、考えた。
もしこの話が本当なら、娘の命をそれだけ延ばしてやることができる。
最長でも20年。
今は10才だから、30才までだ。
でも、もちろん人の一生としては、やはり短いだろう。
それに私が4つもの感覚を失ったら、これから私はどうやって働けばいいのか。
妻がいない今、娘の家族は私だけだ。
私が働けなくなってしまったら、結局は娘だって生きていくことはできないだろう。
この取引が真実だとしても、何の意味があるというのだろう。
「………!!」
しかし、そこで私は、医師の言葉を思い出した。
たとえ5年だけだとしても、延命そのものができるのなら。
あるいはその間に、治療法が見つかるかもしれない。
そうすれば、娘は死ななくて済むのだ。
私の方も、感覚を一つか二つ失うくらいだったら、生活や仕事にも、そんなに致命的ではないだろう。
だったら…。
「どうされますか?」
女は、あらためて問いかける。
私は答えた。
「では、一つの感覚のかわりに、娘の寿命を5年、延ばしてほしい」
彼女は微笑む。
「その言葉、間違いありませんね?」
「間違いはない」
「承りました。では、どの感覚を質入れしてくださいますか?」
私は、考えた。
視覚。聴覚。触覚。嗅覚。味覚。
このうち、最初に失うなら、どれか。
論理的に考えれば、答えは一つしかないだろう。
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◆ 五感の質屋 第二回
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「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。どれを質入れしてくださいますか?」
女は聞く。
私は、もう一度考えた。
やはり普通に考えて、まずは「嗅覚」か「味覚」だろう。
もちろんこれらを失うことは痛手だ。
しかし他の3つに比べたら、日常生活での支障は比べものにならない。
嗅覚や味覚がなくても、困るのは食事のときや、何かのニオイをかいだときくらいだろう。
そのときだけ耐えれば、どうとでもなる。
しかし他の感覚がなかったら、24時間にわたって不便に悩まされることになる。
常に人は何かを見ているし、音を聞いている。また衣服でも床でも、必ず何かに触れている。
この感覚がなくなるというのは、かなりの痛手だ。
また視覚・聴覚・触覚ともに、「コミュニケーションの手段になりえる」ということも重要だ。
聴覚があれば、声が聞こえる。
視覚があれば、筆談ができる。
触覚があれば、手に文字を書いてもらって理解もできるだろう。
しかし嗅覚・味覚でコミュニケーションをすることは不可能だ。
もちろん、誰かに何かを嗅がせたり、味わわせたりして、
「塩味がピリッと強ければ怒ってる」
「カレーのにおいは嬉しいサイン」
などと決めることもできるが、さすがに現実的ではないだろう。
いずれにしても、コミュニケーションができる手段は残しておきたいと思うのが当然だ。
となると、まずは「嗅覚」か「味覚」になる。
では、どちらの感覚にするべきか。
嗅覚と味覚、どちらなら失っても構わないか。
ここで私は、ある事実を思い出した。
「味覚」は、「嗅覚なくしては成り立たない」のだ。
カゼで鼻が詰まっていると、食欲は落ちる。
それは、「ニオイ」まで含めて「おいしさ」を感じるからだ。
すなわち、「嗅覚を失って、味覚だけ残しても、結局は味覚そのものまで障害を受ける」のだ。
だったら、味覚だけ失った方が、まだマシだ。
もちろんこれは絶対的な真実ではないかもしれない。
しかし、少なくとも私には、それが正解であると思えた。
私はそこまで考えてから、言った。
「味覚で頼む」
女は私の思考を読み取るかのように、静かに微笑みながら言った。
「承りました。味覚でございますね」
「あぁ。そしてその代わり、娘の寿命を延ばしてほしい」
「もちろんでございます。ご息女さまのご寿命、確かに5年、延ばさせていただきます」
「………」
「またご利用のときは、お越し下さい」
なるべくなら、もう二度と利用しないで済みたい。
私はそう思いながら、その質屋を後にした。
◆
しばらくして、娘は退院した。
医師によると「病気の進行が、ストップしている」のだそうだ。
完治といえるわけではないが、病状に変化がないため、
「もしまた症状が進行するようなら、もう一度来てほしい」
と言われ、いったん退院となったのだ。
娘は今までとまったく変わらない生活をし、成長していった。
娘は、病気のことは知らない。
ただ「ちょっと具合が悪くなったから入院した」としか考えていない。
それでいい。
娘が苦しむ必要はない。
苦しむのは、私だけでいいんだ。
◆
しかし私には、予想外のことがあった。
味覚を失うこと。
それは想像より、ずっと苦痛だった。
何を食べても、味のない粘土を噛んでいるような気分になる。
そのため、食事のときの喜びが0になる。
くわえて腐った食べ物であるか分からないため、不安ばかりが強くなる。
すると、食事そのものが、苦痛でしかない。
そんなときは、娘を見ることにした。
病気のこともなかったかのように、毎日すくすくと育っていく娘。
それを見ていると、その苦痛を忘れられた。
◆
娘の病気の治療法が開発されたかどうか。
私は毎日のように、医師に電話をして聞いた。
しかし答えは、いつも「NO」だった。
いつしか私は、病気のことを忘れていった。
娘は、治っているんじゃないか?
タイムリミットなんて、ないんじゃないか?
少しずつ、そう考え始めていた。
◆
それが甘いことを感じたのは、娘の15才の誕生日だった。
娘は前とまったく同じように、腹部をおさえて苦しみだした。
「お父さん…。痛いよ…。痛いよぅ…」
その言葉や表情が、私の心を、再び「現実」に引き戻した。
もう、選択肢はなかった。
毒を食らわば皿までだ。
私は再び、その質屋に向かった。
◆
「あら、お客様。ご無沙汰しておりました」
女のビジュアルは、あのときとまったく変化がなかった。
いや、黒い衣服、髪、そして目は、さらに深い黒さを増していたように見えた。
「…また、質入れされますか?」
女がそう聞く。
前の思考の流れから、次に失う感覚なら、一つしかない。
「嗅覚で頼む」
女は、静かに微笑む。
「…承りました。ではお望みの方の寿命、さらに5年、延ばさせていただきます」
◆
娘はまた元通りの生活に戻った。
これで娘の寿命は、20才まで延びた。
もうこれ以上延ばすことは、簡単にはできない。
残る、3つの感覚。
視覚、聴覚、触覚とも、安易には失えない。
今からの5年で治療法が開発されなかったら、どうなるのだろう?
暗闇か。無音か。無触覚か。
どれかを選ばなければならない。
最初の二つのように、すぐに選べるものではない。
その5年は、娘にとっても、私にとっても、重大なタイムリミットだった。
◆
においのない世界は、想像以上につらかった。
「アロマセラピー」というものがある。
人間に香りをかがせることによって、気持ちを落ち着けたりする治療法だ。
それに限らず、人間はニオイを嗅ぐことによって、安心や快感を得たりする。
綺麗な話ではないが、時に脚のニオイや、ワキのニオイを嗅ぎたくなってしまうことだってあるだろう。
臭い香りであっても、人はニオイの刺激によって、安心するのだ。
さらに異性の香り、またシャンプーや香水の香りによって、気持ちが高まることだってあるだろう。
これらの働きが、まったくなくなるのだ。
少しずつ、毎日の生活にたいする刺激や喜びが、失われて来るように感じた。
聴覚があるにも関わらず、「世界から、音が一つ消えた」と感じた。
◆
娘の治療法は、いくら待とうとも、開発されなかった。
味と香りのない生活のつらさとあいまって、イライラすることが増えた。
また娘も、18・19になるにつれて、少しずつ私にたいして反抗しはじめた。
お互いにストレスを抱え、口論になることも、少なくなかった。
そのたびごとに、娘にたいして、言いようのない怒りを感じ始めた。
私は。
私は、誰のためにこんなに大変な思いをしていると思っているんだ。
私がどれだけ自分を犠牲にしていると思っているんだ。
すべて、お前のためじゃないのか!?
自分の献身的な行動が受け入れられないほど、つらいことはない。
私の人生そのものが、まったく意味のないもののように思えた。
もしこのまま治療法が発見されず、20才の誕生日を迎えたら。
また私は、さらに自分を犠牲にして、娘の命を延ばすことができるのか?
自信をもって、その問いかけに答えることができなかった。
私はワラにもすがる思いで、医師に電話をし続けた。
医師は言う。
「まだ見つかりません。しかしあと少しで…。必ず開発できるはずなんです」
「あと、どのくらいで?」
私の質問に、医師は答えた。
「…あと、10年弱の間には…」
それは、さらに二つの感覚を失うことを意味していた。
◆
娘の20才の誕生日を間近に控えた日、私は決心した。
もう、すべてを話そう。
どれだけ私が頑張ってきたかを。
そして、もうこれ以上続けることはできない、ということを。
娘もまもなく、20才になるだろう。
人生として、十分に味わったじゃないか。
もう、いいじゃないか。
これが、運命なんだ。
私は自分に言い聞かせるように、何度も同じ言葉を繰り返した。
「話がある」
私は娘を呼ぶ。
そのときだった。
娘は、こう言った。
「あ、あのね、私の話から、先に聞いてくれる?」
何だろう。
私は不思議に思いながら、話を聞く。
「あのね…」
娘は、しばらく言うのをためらいながらも、口を開いた。
恥じらいながらも、とても幸せそうな顔で、こう言った。
「お父さんに、会ってほしい人ができたの」
◆
「…いらっしゃると思っておりました」
質屋の女は、あいかわらずの姿で、そこにいた。
私は彼女の顔を見るやいなや、思いの丈を叫んだ。
「娘を…。娘を幸せにしてやりたい…!
たとえ30才までだって、構わない…!
好きな男と結婚し、幸せに過ごす。
最後にそれくらい、味わう時間を、作ってやりたいんだ…!」
私は、娘に妻の姿を重ねていた。
同じ病気のせいで、妻は娘を産んで、すぐに死んだ。
私はおそらく、妻を幸せにしてやれなかった。
だからこそ、せめて娘を幸せにしてやりたい。
そのことに、今気がついたのだ。
女はそれを聞き、静かにうなずいた。
「それでは…」
「あと二つ。最大まで質入れさせてほしい」
「…同時に? まず一つで、もう一つは5年後…でなくて、よろしいのですか?」
私は、ためらうことなく答えた。
「二つ同時で構わない」
感覚を失うことは、考えていたよりも、ずっとつらいことだった。
大したことがないと思っていた「嗅覚」と「味覚」ですら、想像をはるか超えた苦しさだった。
視覚・聴覚・触覚なら…。
苦痛はその比ではないだろう。
そのうち一つを先に失い、その苦しさを味わったら…。
5年後に、さらに一つを失うという決断をできる自信はない。
それに、娘の人生と、自分の感覚を失う苦しさを天秤にかけることは、もう二度としたくない。
であれば…。
今、最大限に失う方が、ずっと気楽だ。
結婚をするのなら、生活の心配はないだろう。
たとえ私がどうなろうとも、娘そのものは生きていくことはできるはずだ。
「承りました。では、二つの感覚を質入れとさせていただきます」
「あぁ」
「では視覚、聴覚、触覚のうち、どの感覚を質入れ…。いえ…」
女は息を吸い、言い直した。
「どの感覚を、残されますか?」
答えは、決まっていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆ 五感の質屋 最終話
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「視覚、聴覚、触覚。どの感覚を、残しますか?」
女は、もう一度聞いてきた。
この質問を、今までに心の中で、何度繰り返してきただろう。
目か。耳か。肌か。
私が唯一残せるとするなら、どれにするのだろうか。
毎晩、そのことばかり考えてきた。
そして今、その答えを決めなければいけない。
私は、心を決めていた。
「………で、頼む」
「………承りました。後悔はなさいませんね?」
「あぁ…。しない」
「承りました。では、そのかわり。お客様の望む方の寿命を、10年延ばさせて
いただきます」
「あぁ…。頼む…」
私は静かに返事をした。
「それではお客様は、今から、残りの二つの感覚を失います」
「…あぁ…。好きにしたらいい」
「ただ、です。実際にこの商売を長く続けておりますが…。
4つの感覚ともに質入れできる方は、なかなか少ないものです。なぜなら感覚
を失っていくことは、寿命を削られることより、ずっとずっと苦しいものだか
らです」
「………」
それはもう、今までで十分に理解した。
「いいから早く…」
「いえ、すなわちお客様のような方は、当店にとって、大のお得意様。
ですのでサービスとしまして、もし失礼でなければ、この後のお客様の生活は、
当店が面倒を見させていただきます。
大切なお得意様の、ほとんどの感覚を奪ってそのまま放り出して、あとは知り
ません…では、当店の評判にも関わりますので」
私は、考えた。
嗅覚や味覚と違い、他の感覚がなくなれば、もちろん娘には隠し通すことはで
きないだろう。
そこで苦しむ姿を、娘には見せたくない。
いやそれ以前に、私の存在が、彼女の人生において、重荷になる可能性だって
ある。
娘には、何も心配をしないで、生きていってほしい。
今の私には、それだけが一番の願いだ。
「どうされますか?」
「………」
私はしばらく考え、絞り出すように、こう言った。
「頼む」
その言葉に、女は静かに微笑みながら言った。
「承りました」
◆
あれから、何年の月日が過ぎただろう。
私は、たった一つだけの感覚を持ちながら、いまだに生きている。
今、私がいる場所は、質屋が用意してくれた施設だ。
詳しくは知らないし、知りたいとも思わない。
たまに誰かが来て、食事をくれる。
ただそれを、栄養のためだけに食べ、生きているだけだ。
でも、後悔はしていない。
娘の病気は治っただろうか。
もしくは結局、治ることはなかったのだろうか。
それだけが気になった。
しかしたとえ短い間といえども、娘が幸せな生活を送れたかもしれない…。
そう思うことが、何よりの自分の安らぎだった。
◆
私は、この施設に来る直前に、質屋で女とかわした会話を思い出した。
「聞かれませんでしたので、あえて申し上げませんでしたが…。
五感を、再び『買い戻す』ことが可能です」
「買い戻す…?」
「そうでございます。感覚のかわりに、寿命を差し上げたわけですから…。逆
はすなわち」
「寿命を延ばした人間の寿命によって、感覚が戻る…と?」
「その通りです。その場合、一つの感覚につき、20年が必要です」
「20年? 5年じゃないのか?」
「それはもちろん、利子や手数料もコミコミでございますので」
「………」
「すなわち今回であれば、お客さまの愛娘さまが、『お父さまの感覚ために、
20年ずつ寿命をなくしてもいい』とお考えになったら、感覚が戻るわけです」
「………」
もし。
もし、娘の治療が成功したのなら。
娘の寿命は、さらに先まで延びるだろう。
そのとき、女は娘に、すべてのことを教えてくれると言った。
そしてその上で、娘が私に寿命を返してくれるというのなら…。
私は感覚を取り戻すことができるだろう。
その場合、娘を私の元に、連れてきてくれるという。
でも。
すべてが単なる可能性に過ぎない。
もし、私の感覚が今後もずっと戻らなかったのなら…。
それは、治療が間に合わなかったか、もしくは娘が寿命の受け渡しを拒否した
か、ということになるだろう。
だったら、後者であることを願わずにはいられない。
私は、今の自分に、満足していた。
感覚が一つしかないということは、とてもつらいことだ。
でも。
この感覚一つだけが残っていれば、不思議と安らぎはあった。
さびしさは、もちろんある。
でも、今までの幸せな記憶が、この感覚と共に残っている。
だから、大丈夫だ。
そのときだった。
手が、触れた。
私の手を、ぎゅっと握りこむ感触。
誰だ…?
この、ぬくもり。
この、肌触り。
「………!」
まさか。
まさか…!
次の瞬間、私の胸に、その女性が飛び込んできた感覚があった。
そう。
一度も忘れたことはない。
娘の、感触だった。
◆
私は、視覚か聴覚か触覚か迷っていた。
最後に決めた理由は、「どの感覚で、自分がもっとも幸せを感じたか」だった。
その感覚を失うことで、その幸せまで失ってしまうような気がしたのだ。
それが、「触覚」だった。
目だけが見えても。
声だけが聞こえても。
触れた感覚がないなら、テレビと同じだ。
そこにいる存在感が、何も感じられない。
しかし、逆に。
体温や触覚が感じられるなら。
何も見えなくても、何も聞こえなくても。
相手の存在を、何より感じることができる。
幼いころに抱かれた母親の感触。
はじめて触れた、妻のぬくもり。
生まれたばかりの娘を抱きしめた温かさ。
その記憶があったからこそ、私は幸せを忘れないまま、生きてこられた。
手に、涙と思われるしずくを感じる。
肩に、体を震わせて泣く動きが伝わる。
私は今、確かに娘と、ここに存在している。
そう。
ぬくもりさえあれば、人は生きていけるのだ。
娘は私の手に、字を書いた。
「ありがとう。
わたしのいのちを、おとうさんに、もどします」
私はそれにたいして、静かに首を振り、言った。
もう、十分だ。
お前はこの感覚を、できる限り生きて、大切な人に伝えてあげなさい。
娘が、さらに泣く感覚が伝わってきた。
そして、直後。
私の腕に、娘よりも小さな手が触れた。
(完)
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。